今、日本の子育ての現場では、静かな競争が巻き起こっている。
ピアノ、英語、水泳、プログラミング……。
3歳の子がいくつもの習い事を掛け持ちし、送迎の合間に親はスマホで次なる「お得な体験教室」を検索する。
そんな光景は、もはや珍しくない。
早期教育のブームは、「やるなら早いうちに」「脳の黄金期を逃すな」という言葉とともに、多くの親たちを巻き込んできた。
しかし、改めて問いかけてみたい。
「本当にそれは、子どもの未来のためですか?」
と。
親の不安がつくる「早期教育」
早期教育ブームの背景には、親の「不安」がある。確実にある。
「他の子が始めているのに、うちだけやっていないのはまずいのでは?」
「将来、英語ができないと困るらしい」
「IQが高くなるらしいって聞いた」
もちろん、情報社会の中でそう感じるのも無理はない。
SNSでは、誰かの「先取り」の情報が目に入り、
教育産業は「早く始めれば将来が有利です」と親の焦りに火をつける。
でも、少し冷静に考えてみよう。
「習わせないと不安」になってしまった時点で、それは本当に子どものための判断なのだろうか?
子どもが本気で「やってみたい!」と言った習い事と、
親の不安から始める習い事とでは、スタートの時点で目的が違う。
前者には「熱中」があるが、後者には「義務感」しかない。
「早く始めた子」が、必ずしも伸びるとは限らない
早期教育がもたらす効果については、さまざまな研究があるが、共通しているのは次のような見解だ。
- 確かに一時的に成果が出ることもある
- しかし、長期的には、その差は自然に縮まることが多い
- 逆に、早期に過度な負荷をかけることで、燃え尽きたり、自発性が損なわれるリスクもある
これは、「坂道を早く駆け下りた子が、途中で転びやすいという現象」に似ている。
小さい頃から勉強も習い事も完璧にこなしてきた子が、中学・高校でつまずいたとき、
「努力すればなんでもできた自分」という幻想が壊れ、自信を失ってしまう。
その結果、自分の殻に閉じこもってしまう例を、僕は何人も見てきた。
早く走ることよりも、長く走れる力を育てる。
これを教育とするならば、
教育とは、マラソンなのだ。
「無駄」に見える時間が、人格を育てる
ここで、ひとつ大切な視点を共有したい。
子どもが「何もしていないように見える時間」は、実はとても豊かな時間なんだ。
- 公園で石を拾って並べている
- 空を見上げて雲を眺めている
- ひとりで空想の世界に入り込んでいる
- 砂場で泥団子を作り続けている
これらは、大人の目からすれば「意味がない」「無駄に見える」行動かもしれない。
でも、子どもにとっては大切な「自分で時間を使う練習」であり、
「自分の世界を育てる営み」なのだ。
だから、子どものこういう行動を止める親は、ただただ無知なだけなんだ。
ぼーっとする時間、自由に遊ぶ時間、誰かに指示されずに過ごす時間。
この「余白」が、感性や探究心、想像力、そして「生きる力」を育てるんだから。
「感じること」がすべての土台
学びとは、「感じたこと」から始まる。
- カエルを見てびっくりした体験が、理科への関心につながる
- お店屋さんごっこでやりとりした記憶が、国語や算数の土台になる
- 空の色に感動した記憶が、表現力の根っこになる
大人のように机の上で「情報」を受け取るのではなく、子どもは「身体」で学ぶ生き物なんだ。
だからこそ、英単語よりも先に、虫の動きに驚く経験をさせたいんだ。
九九よりも前に、川の水が冷たいことを手で感じる経験をさせたいんだ。
「学ぶ前に、感じさせる」。
これこそが、幼少期の学びにふさわしい順番なんだから。
習い事よりも、自然体験を
「でも、何もしないと不安です」という親御さんの声もよく聞く。
そんなとき、僕はこう提案している。
「習い事に行く代わりに、子どもと一緒に外へ出てみませんか?」
- 畑で野菜を育てる
- 小さな川で石を投げる
- 木登りに挑戦してみる
- 虫かごを持って近所を探検する
こうした自然とのふれあいは、単なる「遊び」ではない。
五感を通じて、世界の面白さを身体に刻み込む、最高の学習なんだ。
「お母さん、この虫なに?」
「なんでこの木だけ葉っぱの形がちがうの?」
そんな問いかけが出てきたときこそ、「学びの芽」が出た瞬間だ。
それは、どんな教材よりも価値のある時間だ。
そして、それを可能にする環境が、この岩手県には豊富すぎるくらい存在している。
これを活用しない手は、ないだろう。
「子どもは忙しすぎる」ことに気づいてますか?
現代の子どもたちは、ある意味で大人よりも忙しい生活をしている。
- 朝は保育園や幼稚園
- 夕方は習い事
- 家に帰ったら夕食、風呂、寝るだけ
これはまるで、大人のビジネスパーソンのようなスケジュールだ。
何が問題かといえば、「自分で時間を決める余地がない」ということだ。
これは、子どもが「自分の内面と向き合う時間」を失うことを意味している。
これが長く続けば、「自分のやりたいことがわからない大人」になってしまう可能性すらあるのだ。
教育とは「待つこと」でもある
子育てとは、時に「手をかけること」よりも「手を引くこと」のほうが大切な瞬間がある。
早く何かをやらせるよりも、今この瞬間の子どもをじっと見つめる。
何かを習わせる前に、子どもが何に目を輝かせているのかに気づいてあげる。
教育とは、「今すぐ」ではなく、「いつか」のための種まきだ。
その種がいつ芽を出すかは、誰にもわからない。
だからこそ、焦らず、見守り、信じる姿勢が必要なんだ。
結びに代えて 〜「遅い子育て」のすすめ〜
僕は、「早く、早く」と焦る子育てより、「遅くても、深く育つ子育て」をおすすめしたい。
今はまだ分からなくてもいい。
今はまだ何もできなくてもいい。
5歳の夏に見た夕焼けの色、どろんこになって笑った日のこと、好きな石を並べていた静かな午後。
そうした記憶のすべてが、やがて子どもの内面の風景になり、その子の人生を支える「根っこ」になる。
習い事は、あとからでもできる。でも、幼少期にしか味わえない世界は、二度と戻ってこない。
だからこそ、今、親としてできることは
「何を習わせるか」ではなく、「どんな世界に触れさせるか」を考えること。
その視点の転換こそが、子どもの未来を育てる、本当の教育の第一歩になると僕は信じている。